御聖体と聖母の使徒トップページへ    聖人の歩んだ道のページへ     不思議のメダイのページへ    聖ヨゼフのロザリオのページへ


ロスキルドの聖ウイリアム司教                  記念日 9月 2日


 ウイリアムという名のアングロサクソン人の司祭がクヌート王の宮廷付き司祭となった。ある日、王と共にデンマーク旅行した時、その地方における宣教の必要を大いに感じて、生涯そこに留まって働くことを決心した。やがて彼はゼーラントのロスキルドの司教に任命された。クヌート王の後継者であったスウェイン・エトストリドセン王は多くの長所をもった人物であったが、がんこでわがままな人で、キリスト教の掟には何度も背く行為をした。ウイリアムは王を責めたため自分の生命が危うくなったこともあった。しかし、最後まで王の良い友人としてとどまることができた。福音の証しをすることは容易ではなかったとはいえ、彼はそれを全うしたのだった。
 ある時、王は数人の男達を公平な裁判なしに死刑にした。ウイリアム司教はそれを知って、不正に人を殺して血を流させた者は公に償いを果たすまで、教会の秘蹟を受けることはできないと布告した。スウェイン王が軍隊を引き連れて大聖堂へ来た時、ウイリアムは戸口に立って王の入堂を拒絶したので、軍人達は剣を抜いた。ウイリアムは、信仰のためならばと、自分の命をささげるつもりで首を差し出した。その瞬間に、王はすっかり後悔して公に罪の赦しを求め、償いとして土地を教会に寄付することを約束した。
 スウェイン王は私的生活でも、義理の娘をめとって教会の教えに背いていた。ウイリアムは何度も王を諫めたが何の効果もなかったので、ハンブルグの大司教の助力を求めた。しかし、王が自分の非を認めて非合法の妻を離別したのは、教皇と神聖ローマ帝国が非難した後であった。
 スウェイン王とウイリアム司教は、性格の相違にもかかららず常に愛し合っていた。王が1070年に亡くなって、その遺体がロスキルド・カテドラルに運ばれた時、ウイリアム司教は葬列を見て深く悲しみ、その場で息絶えたのであった。